ふるさとまつりではたくさんの方々にご来場いただき、ありがとうございました。
お陰様で大盛況に終わり、感謝しております。
また、皆様にご協力いただいたフォトコンテスト2018の入賞作品が決定しました。
むくろじ12月1日号をご覧ください。
拡大版は☟こちらをクリックして下さい。
大道理の11月は初霜で始まりました。
日中の陽射しは暖かく、すすきが白から銀色に変わり、きらきらと輝いています。
11月11日には、ふるさとまつりが開催されます。
まつりと景色を楽しみに、ぜひお越しください。
こんにちは。
夢求の里交流館、山縣です。
大道理地区での少し昔の秋の暮らしについて、今回は、河内にお住まいの有井君枝さんにお話をお聞きしました。
食事や日々の生活のこと、農業のことなどお話下さいました!
有井君枝さん:『私は大道理の畑地区で八人兄弟の五番目に生まれ、河内に嫁いで来て70年になります。
幼少期はちょうど太平洋戦争中の食糧難の時代で、食事は早いもの勝ちで、兄弟で取り合いになっていました。
そのような時代だったので、母は、自分の分を減らして子どもに食べさせていたのではないかと思います。カボチャや馬鈴薯をおかゆに入れてかさ増ししたものや、ハダカ麦、小麦をお団子にしておかゆやお汁に入れたものを食べていた記憶があります。
河内に嫁いできたのは十九歳の時でした。小学三年生の時に父を亡くし、母に負担をかけたくないという思いで、親同士の決めた縁談で結婚しましたが、主人と長い間ずっと一緒にいられたということは、良いご縁だったのかもしれません。
河内は、蒟蒻栽培に適した土地で、蒟蒻を作られている方が多かったです。
農閑期に出稼ぎに行かずに蒟蒻栽培で副収入を得ている家も何軒かありました。
農協婦人部の生産部で蒟蒻づくりをしていた時代には、私の家でも沢山栽培していました。
今でも栽培していますが、今年は梅雨明けから雨が降らず、猛暑で乾燥しているので、秋に良い芋が出来るかどうか気になっています。
蒟蒻は、水はけの良い土地を好みますが、あまりに乾燥し過ぎても良くありません。
大道理では、味噌、梅干し、タクアン漬けなど加工品を手作りする家が殆どで、実家でも手作りしていましたが、嫁ぎ先の有井家では、お醤油を自宅で作っていました。
醤油を作るための麹、大豆、麦などを寝かせる専用の三畳くらいの部屋があり(麹室)、そこで、味噌づくりに使う木桶よりさらに大きな木桶で作っていました。
とても大きな木桶でしたが、河内には手先が器用で、農作業の傍ら竹細工をされる四、五十代くらいの男性がいて、その方に木桶の※輪替え(※木桶の竹でしめている部分を一度外し、新しい竹に替えること)をしてもらっていました。
【お盆、お彼岸の迎え方】
お盆にも、お彼岸にも小麦で作るお団子、柏餅や小豆入りで、タンサンで膨らませた蒸しパン等作っていました。
お盆には、主人の姉が子どもを連れて里帰りしていたので、大ぞうけ一杯になるくらい沢山作りました。
私とお姑さんと二人で拵えていましたが、前の日から準備するので大ごとでした。
【炭焼きのお話】
私の家では、畑、田んぼと併せて炭焼きをしていました。
昭和38年に大雪(三八豪雪)があり、炭焼きが出来なくなり、その年に主人が就職するまで炭を焼いていました。
炭焼きの窯は赤土を使い、主人やお舅さんが手作りしていました。
炭を焼いていた頃は、毎日炭焼き作業に通いました。
主人が、ナラ、朴の木、クヌギ等の炭木を伐り、伐られた炭木を私が負い子に背負い、窯のところまで運び、焼くための準備をし、それを主人が焼いていました。炭木はとても重く、運ぶのは重労働でした。
炭を焼き始めたら、焼き終えるまでに三日かかります。
火が消えてからも窯の中はしばらく熱く、炭を取り出すまでにさらに時間がかかります。
窯の中の温度が高くなるので、火事を出してはいけないという思いが常にあり、心配でした。
焼き上がった炭は、大向におられた検査する方に、きちんと焼けているかどうか切り口を検査してもらってから、検査を通ったものを炭俵に入れて、久米の方から自動三輪で買いに来られる方に渡していました。
炭焼き作業は、夫婦二人がお弁当を持って、山に行くので、その間、子どもをお姑さんに見てもらっていましたが、子どもが幼いうちはぐずる時に負うて歩いてあやす等、手がかかり、気兼ねなような気持ちがしていました。
大きくなると、近所の子ども達が皆うちに遊びに来て、(子どもならではの)悪さをして騒ぐので、一緒に山に連れて行き、皆でお弁当を食べたりもしていました。
【おやつ】
こどものおやつは、あんこの入ったお団子を菜種油で揚げたものなどを食べさせていました。
菜の花も山で植えられる場所に沢山植えていて、圧搾して油を取る機械を持っている方がおられ、一斗缶に入るくらい作っていたので、家で栽培している小麦と小豆でお団子を作り、菜種油で揚げていましたが、とても美味しく、ようけ拵えても、子どもたちは沢山食べていました。
【農作業、牛のこと】
減反政策が始まるまでは、田んぼは八反作って、二十俵(1200キロ)くらい収穫していました。
農業用の機械が普及し始めるまでは、牛で耕していましたが、主人が就職してからは、牛の世話を私がしました。
三頭いた牛に水や餌を与えるのは私の仕事で、牛の餌は干し草、藁、麦を煮たものなどを食べさせていました。
餌は大量に必要なので、土用までには、冬の餌にするために干し草づくりをし、稲刈りを終えた後の藁を餌にするために、月明かりで、夜でも作業が出来る時には、夕食を終えた後で、夜の十時くらいまで藁のうを作りに行っていました。
稲刈りは、10月の18、19日の秋まつりが終わってからしていました。
刈り終わった稲をハゼ掛けするために運んだものを、主人が縛ってハゼ掛けをしました。
▲はぜかけイメージ画像
お米は、家の近くの川のひらにあった水車で籾を剥がし、臼を持っている人が家々を回って精米する形でした。
天気の良い時には、ロウソクの灯をともしながら、15キロの袋をかついで水車に米を搗きに行っていました。
米作りの他には、野菜づくり、山で椎茸栽培もしていました。
農作業の全てが手作業だった時代には、時間のやりくりが大変で、朝早くから夜中まで仕事をしていましたが、若かったので、出来たのだと思います。
椎茸栽培は、木のええのを伐って何百本も原木にして、栽培していました。
百グラムごとに小分けにすることのできる機械を買ってパック詰めにして出荷し、市場で販売していました。
減反政策が始まってからは野菜を栽培して販売することにも力を入れて、トマト、ナス、グリーンピース、キュウリなど栽培していました。
うちの家は大道理の中でもトマト栽培を早くに始めました。市場の方から野菜を褒められることもやり甲斐になっていました。
南陽市場が閉鎖されるまで、野菜の出荷をしました。河内は土が良く、栽培条件が良く、質の良いものが出来る土地だと思います。』
こんにちは。
夢求の里交流館、山縣です。
夏も終わり九月、田の畔の彼岸花の赤、金木犀の香りが秋の空気のなか優しく香って来て、すっかり秋の気配に包まれていますね。
もうすぐ完成してお届けすることになる、最新号「むくろじ平成30年10月1日号」の「少し昔の大道理」では、河内地区にお住まいの有井君枝さんから「秋の暮らし」のお話を伺い、掲載しました。
有井さんは、昭和38年まで炭焼きをご夫婦でされていたと話されていて、炭焼きについて実物の炭窯を見てみたいというのと、木炭が出来上がるまでを目の当たりにしたいと思っていたところ、大道理地区で唯一、井上哲さんが今でも(生業としてではありませんが)炭焼きをされているという話を井上館長から聞き、これは是非、炭窯を見せて頂きたいと思い、早速連絡を取ってみました。
井上哲さん、山田悦美さんのご兄弟から、炭焼きの予定が近々あり、焼く時に声をかけると言って頂いたものの8月、今年は特別に猛暑が猛威を振るい、暑すぎて出来ないとのことで、しばし時を待つことになり、9月8日。
前回焼いた炭の窯出しから、始まる炭焼きの作業を見せて頂くことになりました。
折角炭焼き作業の一部始終を見せて頂いたものの、むくろじの中では、詳しく掲載することが出来ませんでしたので、ブログでご紹介させていただきます!
炭焼きに集まったメンバーは、井上哲さん、山田悦美さん、藤井敏明さんの三人で、だいたいいつも、このメンバーで炭焼きをされているとのことです。雨が時折激しく降る中、ブルーシートで雨除けを作り、窯出し、窯に木を入れる作業をされることになりました。
▲生憎の雨。作業中雨に濡れないように
炭窯の上にブルーシートをかけています
井上哲さん:「父親が炭焼きをしていて、子どもの頃、作業するところを見ていました。
自分で炭焼きを始めたのは退職してからです。こちらの炭窯は、二代目で、作り直して3年です。
窯は赤土で作る、従来の炭窯の作り方で作っています。
炭焼きはだいだい年に二回しています。
今回炭木に使う木材は、椎茸栽培の原木に使ったものの残りで木炭を作ります。
出来上がった炭は掘りごたつ等に使っています。」
【窯出し】
★前回焼いた炭を取り出します
【窯詰め】
【口焚き】
窯の中で、炭木に火がつくと炭化が始まります
★3日間、窯の中で炭化した後、火を止める作業に入ります。
以上、一連の流れで、大道理鹿野地では、炭焼きをされています。
時折激しく雨が降る中、私の質問に答えつつ、重たい炭木を運び出したり、窯に運び入れたりと大変な作業をされ、
炭焼きの窯出しから、窯に炭木を運び入れるところ、口焚き、火を止めるまでの作業を見せて頂き、貴重な体験でした!
井上哲さん、山田悦美さん、藤井敏明さん、本当にありがとうございました!
こんにちは。
夢求の里交流館、山縣です。
今回で27号目となる「むくろじ8月1日号」が出来上がりました。
シリーズ「少し昔の大道理」の特集の中で、夏の暮らしと食について、大畠地区にお住まいお安野アイ子さんから伺ったお話をこちらにも掲載させていただきます。
『6月8日、9日と行われた「ほたる観賞の夕べ」で、地元の方が栽培された野菜、加工品が販売され、
その中で梅干し、味噌など加工品を出品された安野アイ子さん。
味噌、梅干しともに好評で完売でした。手間暇かかる味噌づくりですが、毎年味噌を個人的に安野さん宅に購入しに来られる方もおられ、今年も二月、大寒の時期に四斗仕込んだものが盆過ぎに出来上がるそうです。
安野 アイ子さん( 大畠)
▲ほたるまつりでの販売の様子です
以前、蒟蒻作りについて、お話を伺ったことがありましたが、今回は梅干し、味噌などの加工品づくりの事、夏の暮らし方についてお話を伺いました。
安野アイ子さん: 『実家は高瀬の木谷という集落で、ダムが出来る前に高瀬に移りました。私は六人兄弟の五番目で、一番上の姉とは十二歳違い、その下に兄が三人、それから私、門前にいる妹(さつきさん)の順です。小学校までは四キロあり、一年生の時は、兄が手を引いて一緒に通ってくれました。
実家は農業をしていて、両親や兄たちが農作業をして、私は小学校高学年くらいから家族の食事を作っていました。母が材料を用意して、「これでおかずを作っちょって」と言われることもあれば、自分で献立を考えて作ることもありました。大家族だったので、食事作りは大変でした。
夏に友達と川へ泳ぎに行っても、夕食づくり等、家の仕事があるので、皆と長い時間遊べず、途中で帰らないといけないのが辛かったです。
実家での加工品づくり・食の話
実家では母が味噌、梅干し、タクアンなどの加工品を作っていました。昔は、今みたいに店で何でも買うことが出来ないので、どこの家でも手作りが当たり前でした。味噌づくりはおくど(※竈、土間、かまどのこと)で、米を蒸したり、大豆を煮たりして、一斗の糀に四升の大豆を入れてこしらえていました。
▲おくど かまど(竈)のイメージ画像です
大豆が不作の時は、少しの大豆にグリーンピース、エンドウ豆を加えて味噌を作っていたこともあります。その時の味噌は少し粘り気が強く、やはり大豆で作った味噌の方が代用の豆で作ったものよりも美味しかったです。
戦後の食糧難の時代には、ミツバチを飼って砂糖の代用にしていて、お餅にハチミツをかけて食べていたこともありました。
大道理の暮らし ~ハレの日の食事
大道理に嫁いで来たのは、二十二歳でした。主人は八人兄弟で、お祭、盆、正月には親族が家に集まるので、大人数になり、準備、片付けなど大忙しで大変でした。お祭りの時はちょうど稲刈りの時期で、当時は鎌を使って手作業での稲刈りなので時間がかかりましたが、お祭の時は一時中断し、早起きして食事の準備などに追われていました。
親族が家に集まった時の食事は、重箱いっぱいに天ぷら、お刺身などのおかずやお土産を入れたものでした。
お盆には、おかずが傷みにくいように、お寿司、大根等の野菜の酢物、焼き魚、南蛮漬け等、酢を入れたものを作っていました。
▲ちらし寿司イメージイラストです
御田頭まつり、観音様のご縁日
大道理の夏には、御田頭祭り、観音様のご縁日、盆踊り、八朔、などのお祭りがありますが、お嫁に来てしばらくの間、御田頭祭りが七月(土用の入りの頃)にあり、三嶋神社御旅所から神輿が出て、門前、西、大畠、鹿野地をまわってお昼に三嶋神社に戻る御神幸が行われていました。
大畠を御神幸される時、私の家にも立ち寄られ、神輿を担ぐ方にキュウリの酢物、そうめん、お酒などのお接待をしていました。
御田頭の前には、ご神幸の道を草刈りや道を※ろくうにする(※平らに)道作りがありました。
暑い季節に鎌と鍬で、広い御神幸の道を整える作業はとても大変なものでした。
観音様のご縁日には、今では皆で福田文子さん宅の観音様のところに集まってお祭りをしますが、割と最近まで、当屋の庭に観音様を運び入れ、集落の人に来てもらって、台所でお接待の準備をしました。昔は沢山の方がお参りに来られていました。
▲大畠地区の観音様
土用干し、お盆のこと
嫁いで以来、夏の土用には、「土用干し」といって、家じゅうの畳を虫干します。
土用干しをすると、畳の裏側が傷みにくくなり、長持ちがします。
庭に垂木を二本ずつ並べて、お日様に当てます。畳を全て干すには二日かかります。
ちょうど、土用の頃は夕立が多く、重たい畳をようやく干し終えて、少しお昼寝をしようと思っていたところに雨が降りだして、慌てて取り込まないといけなくなることもあります。
お盆は、七日日(なのかび)といって、8月7日から15日までの間がずっとお盆だとお姑さんが言っていました。
7日は柏餅の葉を山から採って来て柏餅を作り、竹籠を壁際にかけて、お客さんが来たらお茶と柏餅を出します。
7日日には、子どもは川に七回行って泳ぎ、七回柏餅を食べる良いとされる言い伝えがありました。
大畠の子どもたちは、西地区の川で泳いでいました。
川自体も浅かったのですが、大きな子が年下の子どもたちの面倒をみてくれるため、安心でした。
十四日には、仏壇にハナシバ、果物などお供えし、鬼灯に糸を通して結んだものを仏壇の上部に飾り付けしていました。
▲鬼灯の飾り イメージイラストです
大向の田代の方で、お盆に上の間(仏間)の軒下に船のようなお盆に茄子などの野菜に足をつけたもの(精霊馬)を乗せ、ご先祖様をお迎えされている様子を見たことがありましたが、私の家では、鬼灯を飾り、お供えをするというのが嫁いでからのお盆の迎え方でした。
梅干しのこと
「半夏の雨が降ったら、梅の実が落ちる」という言い伝えがありますが、梅干し用の梅は、梅の肩の毛(産毛状のもの)が取れてツヤツヤになった時が捥ぎ時だと、お姑さんから教わりました。
捥いだ梅は一晩水に浸けて、ヘタを取り、15パーセントの塩で漬けこみ、梅雨が明けたら、三日三晩、お天気の良い日に外で土用干します。
農協婦人部生産部時代、営農指導員の藤田さんに講師で講習会に来て頂き、15パーセントの塩で漬ける梅干しづくりを教わりました。
私は三日三晩よりさらに長く、五日位干します。
なぜ夜も干すのか不思議でしたが、腐るのを防ぐために少し濃い目に漬けた塩分を夜露に当てることで落とすということだと分かりました。
今年は九十キロの梅を6月25日に息子(長男 修二さん)に捥いでもらい、漬けました。』
(7月2日の取材時、水が上がって来ている状態で、7月16日から5日間、天日干しにされています。下の写真参照)
▲2018年7月19日。今年捥いだ90kg
の梅を天日干しされています
こんにちは。
夢求の里交流館、山縣です。
平成30年7月豪雨で被災された皆様に謹んでお悔やみとお見舞い申し上げます。
1日も早い復興を心よりお祈りいたします。
夢求の里交流館では、8月21日、火曜日に
「自然薯×ハーブ薬膳料理講座」を開催いたします。
★大道理産自然薯×ハーブを使って皆で楽しくクッキング!
自然薯粉とハーブスパイスを調合して作る本格派薬膳カレーです!
12種類のハーブスパイスと自然薯を使ったカレーで夏を元気に乗り切りましょう!!
▲講座チラシです
▲講座申込書です
【開催日時】 8月21日(火)10:00~14:30
【開催場所】 大道理夢求の里交流館(おおどうりむくのさとこうりゅうかん)
【講 師】 有吉 俊さん(NPOジャパンハーブソサエティ認定山口ハーブスクール代表)
見神二郎さん 河原美和さん (自然薯栽培グループ 神さまの杖)
山田芳子さん 井上千津枝さん 掛八重子さん (大道理夢求の里交流館)
【参加費】 中学生~大人 2,000円、小学生1,000円 小学生未満 500円
※材料費、昼食代込のお値段です。
【対 象】 一般の方(お子様も一緒にご参加いただけます)
【持参物】 エプロン 【募集人数】 先着20名
【申込み期限】 8月16日(木)
【お問合せ 申込先】 ☎ : 0834-88-1830 大道理夢求の里交流館
周南市大字大道理1332番地
こんにちは。
夢求の里交流館、山縣です。
山の緑色も深まり、梅雨もそろそろそこまで…。
大道理地区でももうすぐ蛍の飛び交う季節。
6月8日(金)、9日(土)の両日、第26回目となる「ほたる観賞の夕べ」が夢求の里交流館周辺で、今年も開催されます。
時間は、両日とも午後6時~午後9時まで
【イベント】
8日(金):ひょうたん一座のショー
9日(土)ハワイアンバンドの演奏
行灯の柔らかな灯りともるホタルロードを散策しながら、飛び交う蛍をご覧いただけます!
初夏の里山の情緒を味わいに大道理にいらしてみませんか?
こんにちは。夢求の里交流館山縣です。
大道理地区の食、風習祭事等、今日の生活の中に根付いているもの、今では失われた伝統等を知りたいという思いから始めた『少し昔の大道理』。「春を待つ」というテーマで、今回は中村にお住まいの山田均さん、富美子さんご夫妻にお話をお聞きしました。
▲「春を待つ暮らし」についてお話し下さった
山田均さん 富美子さん(中村)
山田富美子さん:『私は昭和11年に大道理の横川地区で生まれました。
地主の家でしたが、第二次世界大戦後、地主制度が解体し、父はそれまで教員をしていましたが、退職して農業を始めました。
私の家族も私も農業一年生なので、近所の方に手伝って頂いて、教わりながら作物を作り始めました。
私は四人姉妹で、学校から帰ると農作業を手伝い、田植えの時は、苗を運ぶ等していました。
熟れの悪い米は、千歯に稲をかけてこいだ後、一週間くらい水に浸け、お茶をいるための大きな釜でもみ殻ごと炒り、唐臼で挽き、焼き米にして食べました。味としては、茶粥に近い感じだと思います。
↑上の道具は、脱穀用の道具で、竹と竹の間に挟んでこいでいきます。
▲米を入れる袋の変遷。右から順番に時代が新しくなっていきます。
右から 俵→カマス→麻袋→現在の紙袋
上の写真は米を入れる袋で、右から左へ行くに従って時代が新しくなります。
俵はひと袋60キロ入れます。筵やカマスは、冬の間、雪の降った日などに炭鉢を置いて納屋で編みます。
昔は今よりも雪が多く降り、長靴の中にも雪が入って来ていました。
カマスは、雪かきにも使っていました。
米を出荷するための袋は、何目縫うか等の規定があり、難しく、最初は近所の方から教わりながら作りました。
婚礼、桃の節句、ハレの日の食事
かつて大道理での婚礼は、自宅で執り行われていました。
「尻が据わりますように」という思いを込めて、地域の方が結婚式にお地蔵様を担いで運んで来られ、お礼としてお酒を一升お渡しする風習がありました。
お地蔵様は結婚式の後で新郎がお返ししますが、元々お祀りされていた場所が分からなくなってしまうこともあったと聞いています。
婚礼のための花嫁道具が必要なのは女性だけではなく、養子に入る男性も洋服ダンス、和服用のタンス、長持(布団タンス)、着物など、花嫁道具同様に支度が必要でした。
父(富美子さんの実父)が養子に入った時、トラック二台分の婿入りの道具でしたが、家に入るまでの道が狭く、家に運び入れるのが大変だったという話を実家の隣家で暮らしていた分家の叔母から伺いました。
今では行われていませんが、大道理地区では初めて娘が桃の節句を迎える家があると、近所の方が雛人形を持ってお祝いに来られ、お礼に家では、お刺身、酢物、お吸い物、茶わん蒸し、焼き魚などの食事を振る舞う風習がありました。我が家でも娘の初節句の時には、近所の方が雛人形を持ってお祝いに来られ、近所の方と、山田家だけでなく実家の両親も招いて賑やかにお祝いをしました。
地神申(申祀)・お日待ち
毎年、私の家と山田悦美さん、斎藤数典さんの家の三軒では、立春過ぎの2月に、「お日待ち」をします。お日待ちとは、日じん祭のことで、産土の神社である三嶋神社の宮司さんに来て頂いて、太陽の恵みに感謝し、水神様、火の神である荒神様、土地の神様をお祭りし、一年の家内安全をご祈願するものです。
▲地神申の準備風景 御幣を皆さんで準備されています(中村地区)
中村地区では「地神申(じじんもうし)」を毎年立春過ぎに行っています。
(※三嶋神社の宇多宮司さんによると、地神申は、土地神様をお祀りすることに特化した民間信仰で、土地全体、地域全体をお守りして頂くためのもので、お日待ちは、太陽神(天照大御神)、水神様、荒神様、歳神様をお祀りし、恵みに感謝して、一年の家運隆盛、無病息災を祈る行事なのだそうです。)
▲お祓いをされた後、宮司さんが土地の皆さんの無病息災を祈り土地神様へ祝詞を奏上されています
お日待ちは、今年、斎藤数典さんの家がお世話をされる当屋となり、2月12日に斎藤さんのご自宅で行いました。
お祀りの準備はそれぞれの家で行います。お供え物は、必ずしもこれを準備しないといけないというものではありません。実家が宮司の家で、実家でもお日待ちをしていたため、実家でのお日待ちと、嫁いで来てから義母に習ったことを踏まえて私の家では、お水、お洗米、酒、榊、ロウソクを祭壇の一番上にお供えし、二段目には、人参、椎茸、大根、ブロッコリー等のお野菜や、リンゴ、ミカン、柚子等の果物、海苔などの乾燥したもの、ニラミダイ二匹をお供えします。
当日、宇多宮司さんに来て頂き、この一年間の家内安全と無病息災、お日様など自然の恵みに感謝し、今後一年間、家内安全と、五穀豊穣をお祈りする祝詞を宇多宮司さんに奏上して頂き、水神様、荒神様、山の神様のお札、御幣を頂きます。
山の神様へは、敷地内で四か所に、小豆、お米、大豆等の五穀をお供えし、御幣を立ててお祀りします。これまで先祖が続けてきたことを、自分たちも受け継ぎ、一年に一度行うことで気持ちの上でも清々しく過ごせる気がしています。』