~粟山宣行さん (河内)のお話~
粟山宣行さん:『私は、八人兄弟の一番下です。男七人、女一人の兄弟で、一番上の兄とは十六歳年の差があります。姉とも十四歳違いで、姉は私が中学生の時、お嫁に行き、お盆には実家に帰省していました。
八人兄弟の中で唯一の女性で、※がりっぽう(※気が強いという意味だそうです)でしたが、徳山の映画館に連れて行ってくれるなど、優しくしてくれていました。
私は、中学卒業後に大道理から出て、二十年ばかり徳山に住み、再び大道理へ帰ってきました。
家には、牛と馬と両方いて、馬は、山の木を伐り出したものを「地引」といって引く作業をしていました。牛は雌ばかりを二年飼い、共進会に出していました。牛のいる「だや」(牛舎)には、山の草を刈ったものを敷き、普段は、草を食べさせたり、稲刈りして脱穀した稲わらを積み上げた藁のうの藁を与えたりしていましたが、共進会の前には丸麦を食べさせていました。
農業のこと・養蚕について
家の裏にはかつて、共同の精米のための水車小屋があり、近所の家が交替で米をはがしていました。うちの家では、姉が本を読みながら、一日じゅう足で搗いて、米を剥がしていました。昭和初期には、蚕を飼う人が多く、私の家でも、母が嫁に来た当初は、養蚕をしていて、桑の木を植え、天井裏が蚕の部屋になっていて、はた織をしていました。今はありませんが、かつて家には、はた織機がありました。
私が中学生の頃までは、農作業は全て手作業で、稲刈りは、家族全員でしていました。田植えは、大雨が降った時にも、蓑笠を着てしていました。
当時は、収穫した稲の中で、良いものを種籾としてとっておき、田植えの時期には、桶に三日位漬け、苗代をこしらえて、種を蒔いて育ったものを田んぼに植えていました。田植えの時には、芯綱という、三角形で一センチくらいの道具を使っていました。遠くの田んぼに行くときは、朝八時くらいに家をでて、お弁当を持って行って、家族で食べていました。夏場は、昼間は暑いので休み、夕方から夜にかけて作業していたので、夕食の時間は夜八時から九時くらいでした。
子ども時代の遊び
近所に同級生はいませんでしたが、学校から帰ると、近所の子ども同士で遊んでいました。男子は穴を掘って、ラムネの球を誰が早く埋めるかを競ったり、映画スターや野球選手の絵が描かれたメンコをしたり、釣りをしたりして遊びました。
こどもの頃には川がきれいで、ウナギが沢山いて、ウナギを釣ったり、ツガニを獲ったり、ハヤを獲ったりしていました。
食事のこと、最近の暮らし
私の父は猟をしていたので、兎や山鳥などが獲れた時には、畑で採れたゴボウなどの根菜を入れて、母が炊き込みご飯を作ってくれていました。そういった食事はごちそうでした。母親の作ってくれた食事は、何でも味が良かったですが、酢の物が特に美味しかったです。普段の食事は茶粥と、ジャガイモなど根菜類の煮物などで、冬から春にかけては、麦ごはんを食べていました。麦は、牛や馬には、丸麦を煮たものを食べさせていましたが、人間用としては、麦をぺしゃんこにへしゃがして、柔らかくしたものを白米に混ぜて食べていました。一月末の大寒の時期は、朝から晩まで、寒餅を搗いていました。搗いた餅は、漬物桶に水を張って水餅にしていました。
中学生になると、給食がありました。向道地区は、徳山市の中でも、早い時期に学校給食が始まり、学校には給食室があり、そこで、給食が作られていました。小学校時代には、脱脂粉乳が出て、とても飲みにくかったのですが、中学校の給食では、家で食べたことのないようなものも出され、特にカレーが美味しかったです。
定年退職してから現在までは、畑仕事などして毎日過ごしています。数年前から沢庵を漬けていて、最初は失敗もしましたが、段々要領が分かって来て、美味しく出来るようになりました。子どもの時以来、久しぶりに今年は、畑の傍にある茶の木の茶摘みをして、自分で炒って飲みました。昔から我が家にある、茶渋に染まった筵(むしろ)の上でもむと、とても良い香りがしました。毎日、農作業や家の事など、なにかしら仕事を見つけては、体を動かしています。』