~ 安野マツ子さんのお話 ~
▲安野マツ子さん
安野マツ子さん: 『子ども時代、小学一年生から六年生までの中央部落(西、大畠、門前)の子どもたちは男女問わず、皆一緒に行動していました。皆について行けないと、遊んでもらえないので、小さい頃はついて行くのに必死でした。高いところから飛び降りるにしても、怖いと感じる間もありませんでした。夏に、向道ダムの堰堤で皆が泳ぐのについて行き、おぼれかけた記憶があります。何をするにも必死で皆について行って、それで上達していった気がします。学校から帰ると、大道理じゅう歩きまわって皆で遊んでいました。野イチゴが実る季節になると、お弁当箱を持って黄色や赤い実を摘んでいました。ニッケの根を掘って食べたこともあります。餅まきがあるという情報を、上級生のお姉さんたちから聞くと、(範囲としては)大崩から大久保の端まで歩いて行っていました。
小学生の時は、学校が始まる一時間前に行って、皆で遊んでいました。
遊ぶ仲間に入るための締め切りの時間があって、その時間を過ぎると、仲間に入れてもらえず、皆が遊ぶのをただ眺めているだけになってしまいます。子どもには、子どもなりの様々なルールがあり、そのための心痛もありました。遊びには上級生から受け継がれて来た様々なものがあり、年上の子たちが決めたルールに従って遊んでいましたが、仲間に入れてもらうと嬉しかったです。
遊びの中でも独特なものだと、「カメ」というものがありました。校庭に模様を描いて、二つのチームに分かれてルールに従って遊ぶというものでした。
大畠の子どもが川遊びする時には、西の安野和雄さん宅付近に昔あった、石風呂の近くの川を堰き止めて泳いでいました。川の水は冷たく、唇が紫になっていました。
「食生活のこと」 子どもの頃の食生活では、柏餅、お豆腐などは特別な時に食べるごちそうでした。柏餅は田植えが終わり、泥落としの時に作り、お豆腐は、お祭りの時や、お盆、正月に、自宅で作っていました。石臼で大豆を挽いて、大きな窯で呉汁を煮て、豆乳が出来、豆腐になります。
日頃の食事は、ご飯、味噌汁、沢庵、梅干し、ラッキョウなどの漬物を食べていました。私の家の茶粥は、ほうじ茶を予め煮出した熱いお茶で、米と輪切りにした芋を入れて炊くという形のものです。当時食べていたものがとても美味しく、今でも茶粥を炊きます。漬物は、大きな木製の四斗樽に漬け、その上に大きな石を沢山置いていました。お魚は、カンカンを背負った行商の人が週に何度か大道理を訪れていて、その方から買ったものを食べていました。
子どもの頃は、今では考えられないくらいに、松茸が沢山採れていました。ザル一杯になるくらい採れたものを背中に背負って、自宅に持って帰り、七輪で焼いて食べていました。シメジも採れていましたが、とても大きかったです。
「親から子へと伝えていくもの」 子ども時代には、家の手伝いで山に入り、親から様々なことを教わりました。松茸があるのは、シダのあるところだとか、この道は大向に通じているだとか、色々な知識を伝えてもらいました。
「農業 祭事、信仰のこと」 農業は、今みたいに機械化されていない時代で、田植えにひと月、稲刈りにひと月かかっていました。そのため、農繫期休暇が春の田植えと、稲刈りの時期にありました。小さい子にも田んぼでの仕事はあり、家族が稲を刈った後、ハゼ掛けしやすいよう、藁を置いていっていました。高校生になると、学校からバスで帰り、田んぼの仕事をして、それが終わってから夕食の支度をして、夕食は午後九時頃から、というような生活でした。
▲牛の共進会の様子。手前で牛を引いておられるのが安野マツ子さんのお父さん
自宅には、農耕用の牛と鶏、ヤギがいました。父は牛を育てるのが上手く、小学校の校庭で当時行われていた牛の共進会では、金賞を度々貰っていました。牛は人懐っこく、寄って来ます。学校から帰ると、牛が売られていた時には、寂しい気持ちになりました。牛には、麦をふやかして炊いたものを食べさせていました。
観音様のご縁日の日には、大畠だけでなく、西、鹿野地などの観音様にお参りし、西部落の山の頂上に祀られていた石鎚様も、観音様のご縁日と同じ日にお祭りがあったため、石鎚様にもお参りしていました。
「子ども時代を振り返って」 私の同級生には活発な子がいて、その子から色々と遊び方を教わりました。環境や付き合う友達によって、全く違う子ども時代になると思います。小さい頃はいつも大きな子について行くことに一生懸命で、色々なことができるようになり、活発な同級生と一緒に行動することで、楽しい子ども時代を過ごすことができました。』