こんにちは。夢求の里交流館山縣です。
大道理地区の暮らしや風習について、大道理で生まれ育った方や、幼少期から今までずっと、大道理で過ごされた方からお話をお聞きして、お伝えします。
今回は大道理中村の山田悦美さん、温子さんご夫婦、大道理大畠の安野マツ子さんから、お話を伺いました。
今回は山田悦美さん、温子さんご夫婦から伺ったお話を掲載させて頂き、次に、安野マツ子さんのお話を掲載します。
▲夏の暮らしなどのお話を聞かせて下さった山田温子さん
山田温子さん:『私が子どもの頃は大道理にはまだ、子どもが沢山いて、小学校の同級生は、女子が十一人、男子は十二人いました。子どもたちは、学年関係なく遊んでいて、夏には川で泳いで遊びました。地区ごとに泳ぐ川が違っていて、中村の私たちは門前川で泳いでいました。川は子どもの頃、とてもきれいでしたが、田んぼに農薬を散布した時には、泳いではいけないという印として、赤い旗が立てられていました。
男子は、学年が上の大きな子が釣り竿を持ち、低学年の子は、餌を入れたバケツを持って、釣りに行っていました。
中学生になると、近所の女の子たちと一緒に、中村から山越えをして大久保へ抜けて、向道ダムの堰堤へ泳ぎに行きました。
家での夏の暮らしは、子供の頃には、まだ蚊取り線香がなかったので、夏には蚊帳を吊って家族全員、その中で眠っていました。』
悦美さん:『大道理地区では八月に、盆踊りと八朔祭りがあります。子どもの頃、盆踊りは、その年に亡くなった方のおられる家に行ってお祭りしていました。盆踊りは、今のような手踊りはまだ復活しておらず、ゆったりとした「あさがお」という踊りをしていました。踊りは太鼓を叩く人、音頭を取る人がいて、盆踊りの時に使われる「口説き本」をアレンジして歌う、上手な歌い手がいました。鹿野地には二人、瀬戸兼には三人、歌の上手い人がいました。
八朔祭りは、子ども時代には、神輿が出ていて、部落ごとに神輿が出るところと、出ない部落とがありましたが、もみやま神輿といって、男の子が神輿の上に乗っていました。
▲鹿野地の観音様
八月十日の観音様のご縁日は昔、子どもたちが、お参りに来られた方に、お接待をしていました。鹿野地の観音様は小高い場所に祀られているので、登って来られる方を見ながら、「あと何人お参りがある。」と、準備しながら、お接待していました。』
「子ども時代の食生活」
温子さん: 『子ども時代は、麦ごはんやおかゆと、梅干し、白菜漬け、沢庵などの漬物と、野菜の煮物など野菜中心の食事でした。大道理では、茶粥を食べる家庭も多かったと思いますが、私の家は、茶粥ではありませんでした。お芋の入ったおかゆを食べていて、美味しかったです。冷蔵庫の無い時代なので、出汁に使うイリコは、魚屋さんから一年分購入して、天井からぶら下げて保存していました。昭和三十年代までは、魚屋さんが新南陽から売りに来られていました。
子ども時代のおやつとしては、蒸し器で作る蒸し饅頭を食べていました。夏のおやつは、スイカや、トマト、原商店で購入したアイスキャンディーなどでした。私は姉が三人、兄一人の五人兄弟の末っ子です。物が無い時代だったので、羊かんを人から頂いた時は、兄弟で喧嘩にならないよう、物差しで測り、分けて食べていました。兄弟とは歳が離れていて、小さい頃、「私があっちゃんをおんぶする」と、取り合いになるくらい、三人の姉たちからは特に可愛がられて育ちました。三人の姉たちは健在で、皆、比較的近くに住んでいます。子ども時代に可愛がってもらった恩返しができるのは今だと思っています。
父が軍人で転勤があったので、兄弟全員生まれた場所が違い、私も生まれは徳山ですが、四歳から今までずっと大道理で暮らしてきました。大道理はのんびりとのどかな地域で、人情があります。大道理出身の同級生が周りにいて、今でも皆、お互いにちゃん付けで呼び合い、共通の話も出来るので、良いですね。』