こんにちは。
夢求の里交流館、山縣です。
大道理地区での少し昔の秋の暮らしについて、今回は、河内にお住まいの有井君枝さんにお話をお聞きしました。
食事や日々の生活のこと、農業のことなどお話下さいました!
有井君枝さん:『私は大道理の畑地区で八人兄弟の五番目に生まれ、河内に嫁いで来て70年になります。
幼少期はちょうど太平洋戦争中の食糧難の時代で、食事は早いもの勝ちで、兄弟で取り合いになっていました。
そのような時代だったので、母は、自分の分を減らして子どもに食べさせていたのではないかと思います。カボチャや馬鈴薯をおかゆに入れてかさ増ししたものや、ハダカ麦、小麦をお団子にしておかゆやお汁に入れたものを食べていた記憶があります。
河内に嫁いできたのは十九歳の時でした。小学三年生の時に父を亡くし、母に負担をかけたくないという思いで、親同士の決めた縁談で結婚しましたが、主人と長い間ずっと一緒にいられたということは、良いご縁だったのかもしれません。
河内は、蒟蒻栽培に適した土地で、蒟蒻を作られている方が多かったです。
農閑期に出稼ぎに行かずに蒟蒻栽培で副収入を得ている家も何軒かありました。
農協婦人部の生産部で蒟蒻づくりをしていた時代には、私の家でも沢山栽培していました。
今でも栽培していますが、今年は梅雨明けから雨が降らず、猛暑で乾燥しているので、秋に良い芋が出来るかどうか気になっています。
蒟蒻は、水はけの良い土地を好みますが、あまりに乾燥し過ぎても良くありません。
大道理では、味噌、梅干し、タクアン漬けなど加工品を手作りする家が殆どで、実家でも手作りしていましたが、嫁ぎ先の有井家では、お醤油を自宅で作っていました。
醤油を作るための麹、大豆、麦などを寝かせる専用の三畳くらいの部屋があり(麹室)、そこで、味噌づくりに使う木桶よりさらに大きな木桶で作っていました。
とても大きな木桶でしたが、河内には手先が器用で、農作業の傍ら竹細工をされる四、五十代くらいの男性がいて、その方に木桶の※輪替え(※木桶の竹でしめている部分を一度外し、新しい竹に替えること)をしてもらっていました。
【お盆、お彼岸の迎え方】
お盆にも、お彼岸にも小麦で作るお団子、柏餅や小豆入りで、タンサンで膨らませた蒸しパン等作っていました。
お盆には、主人の姉が子どもを連れて里帰りしていたので、大ぞうけ一杯になるくらい沢山作りました。
私とお姑さんと二人で拵えていましたが、前の日から準備するので大ごとでした。
【炭焼きのお話】
私の家では、畑、田んぼと併せて炭焼きをしていました。
昭和38年に大雪(三八豪雪)があり、炭焼きが出来なくなり、その年に主人が就職するまで炭を焼いていました。
炭焼きの窯は赤土を使い、主人やお舅さんが手作りしていました。
炭を焼いていた頃は、毎日炭焼き作業に通いました。
主人が、ナラ、朴の木、クヌギ等の炭木を伐り、伐られた炭木を私が負い子に背負い、窯のところまで運び、焼くための準備をし、それを主人が焼いていました。炭木はとても重く、運ぶのは重労働でした。
炭を焼き始めたら、焼き終えるまでに三日かかります。
火が消えてからも窯の中はしばらく熱く、炭を取り出すまでにさらに時間がかかります。
窯の中の温度が高くなるので、火事を出してはいけないという思いが常にあり、心配でした。
焼き上がった炭は、大向におられた検査する方に、きちんと焼けているかどうか切り口を検査してもらってから、検査を通ったものを炭俵に入れて、久米の方から自動三輪で買いに来られる方に渡していました。
炭焼き作業は、夫婦二人がお弁当を持って、山に行くので、その間、子どもをお姑さんに見てもらっていましたが、子どもが幼いうちはぐずる時に負うて歩いてあやす等、手がかかり、気兼ねなような気持ちがしていました。
大きくなると、近所の子ども達が皆うちに遊びに来て、(子どもならではの)悪さをして騒ぐので、一緒に山に連れて行き、皆でお弁当を食べたりもしていました。
【おやつ】
こどものおやつは、あんこの入ったお団子を菜種油で揚げたものなどを食べさせていました。
菜の花も山で植えられる場所に沢山植えていて、圧搾して油を取る機械を持っている方がおられ、一斗缶に入るくらい作っていたので、家で栽培している小麦と小豆でお団子を作り、菜種油で揚げていましたが、とても美味しく、ようけ拵えても、子どもたちは沢山食べていました。
【農作業、牛のこと】
減反政策が始まるまでは、田んぼは八反作って、二十俵(1200キロ)くらい収穫していました。
農業用の機械が普及し始めるまでは、牛で耕していましたが、主人が就職してからは、牛の世話を私がしました。
三頭いた牛に水や餌を与えるのは私の仕事で、牛の餌は干し草、藁、麦を煮たものなどを食べさせていました。
餌は大量に必要なので、土用までには、冬の餌にするために干し草づくりをし、稲刈りを終えた後の藁を餌にするために、月明かりで、夜でも作業が出来る時には、夕食を終えた後で、夜の十時くらいまで藁のうを作りに行っていました。
稲刈りは、10月の18、19日の秋まつりが終わってからしていました。
刈り終わった稲をハゼ掛けするために運んだものを、主人が縛ってハゼ掛けをしました。
▲はぜかけイメージ画像
お米は、家の近くの川のひらにあった水車で籾を剥がし、臼を持っている人が家々を回って精米する形でした。
天気の良い時には、ロウソクの灯をともしながら、15キロの袋をかついで水車に米を搗きに行っていました。
米作りの他には、野菜づくり、山で椎茸栽培もしていました。
農作業の全てが手作業だった時代には、時間のやりくりが大変で、朝早くから夜中まで仕事をしていましたが、若かったので、出来たのだと思います。
椎茸栽培は、木のええのを伐って何百本も原木にして、栽培していました。
百グラムごとに小分けにすることのできる機械を買ってパック詰めにして出荷し、市場で販売していました。
減反政策が始まってからは野菜を栽培して販売することにも力を入れて、トマト、ナス、グリーンピース、キュウリなど栽培していました。
うちの家は大道理の中でもトマト栽培を早くに始めました。市場の方から野菜を褒められることもやり甲斐になっていました。
南陽市場が閉鎖されるまで、野菜の出荷をしました。河内は土が良く、栽培条件が良く、質の良いものが出来る土地だと思います。』